瀬戸内国際芸術祭2013と地域政策に関する試論~その3 宇野~

 

4.岡山・宇野港

 

(1) 今日も青空が広がっている。10:00高松発の四国フェリーで宇野港まで1時間。船客は20人余で、芸術祭客らしきは2~3人だ。それでも小豆島、女木島、男木島方面へのフェリー乗り場には行列が見られた。若い人たちがガイドブックを手にしているので芸術祭客だと分かる。

宇野港の芸術祭案内場は、プレハブ式だが幟や看板でけっこう賑わっているかに見える。いつものように、作品案内と宇野港の地図をいただく。記念にフラッグ型ハンカチを買い求めた。

JR宇野駅前に「海の贈り物」オブジェが天空を突いている。海の生き物が天をめざして駆け上がっているところが面白い。案内図を片手に、突堤の先端に向かって歩く。作品152「宇野のチヌ」と作品153「舟底の記憶」が異様な雰囲気で迎えてくれる。どちらも日常の廃材、漂流物を素材にして、宇野の魚とスクリューを組み合わせている。「遠くから鑑賞すべき作品ですね」とお年寄り集団がつぶやいていた。

宇野は臨海港湾産業都市であるとともに、「連絡船の町」であった。人口の激減は、昭和49年のオイルショックからはじまって、今にその余韻を引きずっている。人口ピークは昭和50年の7万8千人で、現在は6万4千人である。その間に、瀬戸大橋や明石大橋の開通により、「連絡船の町」は交通環境の変化が直撃しているかのようだ。

港湾産業(造船など)や連絡船の廃止などで、広大な岸壁や突堤が広大な空間として残されているのが現状である。

その広大なスペースの有効利用計画も策定されているようだが、遅々として進んでいないようだ。突堤には「愛の女神像」「碇のオブジェ」、かつての商店街には芸術写真やシャッター壁画ペイントがある。「連絡船の町」の将来テーマは、<音と写真の町>に生まれ変わろうという方針らしい。なぜ音と写真の町なのかが分からない。

(2) 宇野の街中を歩く。宇野・築港周辺マップを片手に、もう一方でデジカメを構える。おおげさに散策ルートを考慮しないでも、およそ1時間ほどで一回りの見学はできる。JR宇野駅舎にターミナルの風情、かつての造船工場の残されている「おばけ煙突」、商店街はシャッターと間口の狭い飲み屋、旅の宿の看板が淋しい。空き店舗や空きスペースを利用して、アート工房や若いアーチストが巨大な造形作品に挑戦している。また、散策していると、かつての連絡船係留岸壁遺構やちょっとしたメモリアルパークが整備されているのが連絡船の町を思い起こさせる。

宇野駅北側から宇野港を望む
宇野駅、宇野港を望む

■3 月26 日メモ■

  1. 臨海港湾産業の衰退のど真ん中で、文化芸術による「町おこし」が可能か。
  2. 「音と写真の町」をめざしているようだが、地域人の関心度合いはいかがであろうか。
  3. 人口6万の町では、地域外からのアーティストの活躍に期待せざるを得ないか。

(3) ここで文化経済学的な考察

芸術作品を分類してみる。絵画、彫刻などの個別分類では複雑怪奇となる。そこで、文化経済学的に文化芸術を商品に見立てて、<生産~流通~消費>過程のうち<消費>に注目してみる。

すなわち、芸術作品は①ただちに消費されてしまう場合(作品の消失)と②消失されずに物質として維持されるもの、に区分されるとする。例えば、①の芸術作品としては、料理、演劇、芝居、音楽などがある。これらは味わったり、鑑賞してしまえばたちまち消失する。例え映像化されても、食味、その場の感動、共感などは再現されない。つまり「ほんもの」ではなくなる。②は、絵画、彫刻、オブジェ、建築などである。これらは美術館などに展示され続けていると、正の外部性として威光を放つ。歴史的変遷を経ると<ヘリテイジ>なものとなる。劣化や滅失は考慮外とする。

一方で、芸術作品の生産過程をみる。①、②ともに人間の働きかけがあってはじめて作品となることに共通性が認められる。流通過程では、①は非流通性となり、②は流通性が可能である。芸術作品を消費段階で捉えたときにはじめて、文化的価値に性向(性質の傾向)区別ができ、①では限定的な消費者(享受者)となり、②では不特定多数の時間制限のない享受を得られるであろう。

これらを瀬戸芸祭の特徴である現代アートに適用してみると、現代アート作品、アートイベントなどのインスタレーションは、「期間が終われば撤去」されるとされており、どちらかというと①分類で属すと考えられるだろう。限定された消費者(享受者)の一時的な感動と共感を現代アート作品は与えるのみである。

(つづく)

田村彰紀/月報348号(2013年7月号)